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2022年9月27日

ふるさと探求コース第5・6回講座 出雲歴史めぐり ー島根郡編ー 現地で学び、神話の世界に思いを馳せました!

令和4年度講座の様子をお知らせするシリーズの第6弾は、ふるさと探求コースです。

8月19日・26日に開催した第5・6回講座では、講師に荒神谷博物館元副館長の平野芳英氏をお迎えし、「出雲歴史めぐり ー島根郡編ー」と題して行いました。

佐太神社(鹿島)、日御碕神社(野波)、爾佐神社(千酌)そして、弁慶伝説の地(本庄)の4ヶ所をバスで巡り、車中及び現地で平野先生の熱のこもったお話を聞きました。
途中多古鼻マリンパークでの昼食をはさみ、島根郡を一日かけゆっくりと巡り、多くのことを学びました。

  • 宇波の折絶 くにびき神話における「狭田の国」と「闇見の国」をつなぐ場所で、ここから佐太神社へと向かう。
    宇波の折絶 くにびき神話における「狭田の国」と「闇見の国」をつなぐ場所で、ここから佐太神社へと向かう。
  • 佐太神社 中央が正中殿、右が北殿、左が南殿。正中殿には佐太大神をはじめ五柱が祀られている。
    佐太神社 中央が正中殿、右が北殿、左が南殿。正中殿には佐太大神をはじめ五柱が祀られている。
  • 佐太神社の神宝として伝わる「扇」 12世紀前半に制作されたと思われ、京都から寄進されたものと推定される。
    佐太神社の神宝として伝わる「扇」 12世紀前半に制作されたと思われ、京都から寄進されたものと推定される。
  • 佐太神社正中殿の神紋は扇
    佐太神社正中殿の神紋は扇
  • 母儀人基社(はぎのひともとしゃ) 南殿の南側を山腹に登った所にあり、伊邪那美命の斎場跡と言われている。
    母儀人基社(はぎのひともとしゃ) 南殿の南側を山腹に登った所にあり、伊邪那美命の斎場跡と言われている。
  • 日御碕神社(野波) ご祭神は天照大御神と須佐之男命。もとは沖合の西の雄島にあったが、天正年間の大波で流され現在の場所に移された。毎年10月23日には、ガッチ祭りと呼ばれる奇祭が行われることで有名。
    日御碕神社(野波) ご祭神は天照大御神と須佐之男命。もとは沖合の西の雄島にあったが、天正年間の大波で流され現在の場所に移された。毎年10月23日には、ガッチ祭りと呼ばれる奇祭が行われることで有名。
  • 野波まちあるき 明治末期から養蚕業が盛んで、大型の家屋を建設し、潤っていた漁師町という印象を受ける。
    野波まちあるき 明治末期から養蚕業が盛んで、大型の家屋を建設し、潤っていた漁師町という印象を受ける。
  • 野波浜 大きく入り込んだ天然の良港。古代には湾が広がっている海の方角を北と定めていたが、これは視覚上の北の方位であり、実際の北は東に45度の方角である。
    野波浜 大きく入り込んだ天然の良港。古代には湾が広がっている海の方角を北と定めていたが、これは視覚上の北の方位であり、実際の北は東に45度の方角である。
  • マリンゲート多古鼻での講義 昼食後「神々の国の首都」の中から、小泉八雲が加賀の潜戸を尋ねた時の紀行文について講義を行って頂いた。
    マリンゲート多古鼻での講義 昼食後「神々の国の首都」の中から、小泉八雲が加賀の潜戸を尋ねた時の紀行文について講義を行って頂いた。
  • 爾佐神社(千酌) 元宮は後方の山の中腹にあったが、現在は目の前に千酌湾が広がる平地に遷座されている。神紋は扇で佐太神社と同じ。
    爾佐神社(千酌) 元宮は後方の山の中腹にあったが、現在は目の前に千酌湾が広がる平地に遷座されている。神紋は扇で佐太神社と同じ。
  • 流鏑馬神馬の像 450年続く流鏑馬神事が毎年4月3日の例大祭の一環として行われる。悪魔を払い安全と豊作・大漁を祈願する。
    流鏑馬神馬の像 450年続く流鏑馬神事が毎年4月3日の例大祭の一環として行われる。悪魔を払い安全と豊作・大漁を祈願する。
  • 千酌湾と麻仁租(まにそ)山 千酌には隠岐の国に渡る港があり千酌駅(ちくみのうまや)が置かれていた。麻仁租山は千酌を目指す際の目印になった山で、1700万年前の火山噴火による流紋岩や安山岩で出来ている。
    千酌湾と麻仁租(まにそ)山 千酌には隠岐の国に渡る港があり千酌駅(ちくみのうまや)が置かれていた。麻仁租山は千酌を目指す際の目印になった山で、1700万年前の火山噴火による流紋岩や安山岩で出来ている。
  • 千酌の町の南に広がる水田 爾佐神社の背後には広い水田があり、千酌駅の役人などの生活を支えた。
    千酌の町の南に広がる水田 爾佐神社の背後には広い水田があり、千酌駅の役人などの生活を支えた。
  • 成相定恒の墓 成相定恒は弁慶の叔父で、腕の良い刀匠であった。弁慶は自分がもらった強い刀と同じものが造られると自分の身が危ないと思い、叔父定恒をもらった刀で殺してしまった、という伝説がある。
    成相定恒の墓 成相定恒は弁慶の叔父で、腕の良い刀匠であった。弁慶は自分がもらった強い刀と同じものが造られると自分の身が危ないと思い、叔父定恒をもらった刀で殺してしまった、という伝説がある。